『佐伯沙弥香について』(入間人間)を読んだ
たぶん中学生ぶりに入間入間を読んだ。
・佐伯沙弥香の視力ーー近くのものを見るために
『佐伯沙弥香について』では、たとえば彼女が過去に習い事をたくさんしていたことなど、原作ではあまり触れられなかった佐伯の設定が深く掘り下げられる。気になったのは視力に関する描写だ。
原作では佐伯の視力は悪く家では眼鏡という設定が明かされたくらいだが、小説では小学生、中学生、高校一年生と時期を追って佐伯を書くことで視力の悪化についても段階を踏んで書かれている。初めて視力に言及されるのは以下の引用部分だ。
出かける時、水泳教室ではなくあの子のもとへ向かうような気持ちになっていた。好きとか嫌いとかではなく、その異質さには引き寄せられるものがあった。道はいつものように蟬が鳴き、日は強く、雲は膨らむ。けれどその日差しがいつもより白さを増しているように見えた。全体に輪郭がぼんやりとしている。目を擦っても取れない。
「……もしかして」
目の端に触れる。少し、視力が落ちたのだろうか。近眼、と机の上のノートを連想する。酷使された目が、近くのものを見るためのものに変わってしまったのかもしれない。
視力の悪化が単なる身体の変化のみを指し示すにとどまらず、佐伯の心的な変化の始まりを連想させる。この「目」の変化は物の見方――とりわけ「特別」な人間に対する意識の始まりとも繋がっているだろう。
そして「5年3組 佐伯沙弥香」の終盤では女の子と佐伯の水中での触れ合いが描かれる。挿絵もあり、印象的なシーンだ。
二人、水中に沈んだまま目が合う。肉眼なのに、二人しかいなくて水中が荒れていないから相手の顔がよく見える。水中でも輝くような女の子の瞳が私を強く捉えていた。(中略)女の子の手を取る。女の子はびっくりしたのか、泡を多く吐き出す。足をばたつかせて姿勢を維持しながら、取られた手を見つめる。私と女の子の手の色合いは対照的で、その輪郭線が悪くなり始めた目にもはっきりとわかる。
佐伯の 「悪くなり始めた目」はしかし「はっきりと」女の子をうつしている。佐伯はこの時、女の子が自分に触れたことで熱くなった体をプールで冷やしているのだと理解し、後を追うように飛び込み、熱さを確認するように彼女の手に触れる。ここでは佐伯に警戒や不安の感情は全く見られず、「引き寄せられ」るように女の子へと向かっていく。
私は、なにを見てしまったのだろう。なにを受け取りかけて、息が跳ねて呼吸もままならないほどに走って、なにがそんなに怖いのか。なにが、なにが、と思考が整然としない。(中略)地面を跳ぶように蹴って、視界が目まぐるしく上下する。あの女の子のもたらす泡を吸い込んだ先にあるもの。それはまだ、私が知ってはいけないもの。幼い知識や狭い常識では及びもつかないそれの正体を、本能だけが知っている。
「幼い知識や狭い常識」によって佐伯は女性同士の恋愛を「ありえない組み合わせ」だと思いこんでいた。しかし、いざ女の子と自身という身にそれらが降りかかってきたとき、佐伯は「引き寄せられ」た。
「なにを見てしまったのだろう」という疑問はつまり何かを見たということであり、それが佐伯の「目」の、「近くのものをみるための目」への変化を示している。しかし、幼い佐伯はまだそれらを理解できるだけの知識もないために、自覚はされなかった。そして、続く「友澄女子中学校2-C 佐伯沙弥香」では千枝先輩との交際を通して己の性質を自覚していく。
落ち着いてから眼鏡をかけ直す。家ではいつの間にか、眼鏡をかけるようになっていた。ふと見下ろす手も少し大きくなったし、椅子だって丁度いい大きさになる。だから恋人だってできる。
「恋人……」
呟きながら目元を押さえる。改めて、慣れない関係だと実感する。
これほど、他のことに意識が向かないのは初めてだった。集中している、ともまた異なる偏りだった。視界が中央にぎゅっと押し潰されて、ごく狭い場所しか見えなくなってしまっているような窮屈ささえ感じる。とにかく、私には『あの子』のことしか頭になかった。
七海燈子と出会って、私は納得する。理解でもなく、諦めでもなく、そこにあるのは自分への納得。私は、女の子に恋することしかできないんだって。
・愛の習得ーー佐伯沙弥香とフィクション
「小説はあんまり……」小説に限らず、映画やドラマといったフィクションにはさほど惹かれなかった。作り物を否定するわけではないけれど、そういったものは触れようとしても遠くに感じられた。
少女漫画やラブソングのことばは/キラキラしてて眩しくて/今なら辞書を引かなくてもわかるけど/わたしのものにはなってくれない
やがて君になる 第1巻 p.3
本で読む歌で聞く恋はキラキラしてて/これまでは憧れるだけだったけど/わたしだって羽根が生えたみたいにフワフワしちゃったりそんな期待/だけど/依然しっかり地面を踏みしめていて大丈夫 わたしはきっと/他の人より羽根が生えるのが遅いだけで/きっと今に/もうすぐ…
やがて君になる 第1巻 p.32-34
小糸も佐伯同様に、こと恋愛を取り扱ったフィクションについては「わたしのものにはなってくれない」点で「遠くに感じられる」と述べるが、しかしp.3の小糸は布団に寝っ転がりながら手元にはおそらく恋愛の小説、ヘッドホンでおそらくラブソングを聞き、周りには白泉社の装丁と思しき少女漫画が積まれている。
つまり小糸は佐伯と同様に恋愛についてフィクションを「遠くに感じ」ているが、しかしそれらを積極的に摂取している。それは理解できないからこそ理解したいこと、恋愛を遠くに感じる一方「憧れて」もいることの現れだろう。(そして小糸はSFやミステリを好んで読むし、およそ身近でなくともフィクションを楽しめるタイプであることは分かる/また自身からフィクションによって恋愛を学びとる他に、小糸には"恋人をしょっちゅう家へ招く姉"という実際的な恋愛カップルのモデルケースも配置されている)
中学二年生の佐伯は恋愛について
家族以外に、名前で呼び合うような相手は今のところ誰もいない。いつか、そういう人にも出会えるのだろうか。……少なくともしばらくは無理そうだった。中高一貫して、女子しかいないし。
人の見えているところでそんなこと(※引用者注 指を絡めていた、キスをしていた)をするとは思えないから、どれも信じるに値しない。そう思っていた、けど私はついさっき、先輩に手を握りしめられていた。あり得ないと感じていたことは、あり得なくなかった。
と、「いつか」のものとして捉えており、また女子同士のそれを実際に自分の身に降りかかるまで実感としては捉えていなかった。佐伯は自身の恋愛について、七海との出会いを経て「私は、女の子に恋することしかできない」と「納得」する。「愛は文学のなかで前もって形づくられ、まさしく規定されている感情」(Niklas Luhman,1982)※1であるとき、佐伯は「女性同士の愛」を文学の中で(この場合文学というのはひとつのメディアとしての代表例であり、目に映るものという意味であらゆるものが対象となる)規定されてこなかった。
それは異性愛/同性愛という二項対立的階層序列の中で(異性愛にくらべて)同性愛が描かれてこなかったという社会状況のみならず、佐伯がフィクションを楽しまないという個人の問題も重なっている(もちろんこれは別個の並列する問題ではなく接続しうる問題でもある。佐伯にそぐうかたちの恋愛が描かれなければそれを「遠くに感じられる」のは当然だろう)。
たいして、千枝先輩はフィクションでの恋愛の学習と、それへのあこがれを携えたことで佐伯との交際へ踏み込むこととなる。その中でのやり取りでは佐伯は頻繁にその要素を感じ取ってもいる。
「沙弥香ちゃんの手、あったかいね」
先輩って、フィクションみたいな発言が多いなって思った。
「楽しい時間はすぐ過ぎるね」
色々なところで見かけるような感想を、自分が本当に聞くことになるとは思わなかった。
そして、千枝先輩が佐伯とのキスの中でひびくことが何もなかったことと、千枝先輩の高等部進学でやがて二人の距離ははなれていく。佐伯が水泳の女の子との疑似的な身体接触の中で目覚めかけたものがあったように、千枝先輩も佐伯とキスをしたことでーーそれが明確に愛のコードの中で行われるものという意味で――佐伯への好意へ違和を感じるようになり、先輩からの宣言で交際は終了する。直後は怒りの感情を煮え立てる佐伯も、その後交際を「恋に恋するなんてありふれた表現があるけれど、先輩は正にそれだった」と振り返っている。
千枝先輩はさまざまな学習の結果により恋人との電話やキスにあこがれたわけだが、佐伯はそうではなく、交際の中でそれらにあこがれた先輩が望むものを学習していった。「こういう私にしたのは、あなたのくせに。」は原作の佐伯のモノローグであるが、小説版ではこれが千枝先輩を通した学習の結果であること、またそうなった佐伯の過程を掘り下げている。
『佐伯沙弥香について』では、視力と読書の趣味において原作で開示された情報から佐伯沙弥香の恋愛の獲得が掘り下げられていた。『やがて君になる』という恋愛を問い直す物語の中で佐伯は劇中で初めから七海に恋愛をしている人物であるが、ただ過去を描くだけでなく、そこに彼女もまた恋愛の獲得していく過程が描かれているという点でやが君の「恋愛を問い直す」という軸はノベライズにおいても徹底している。原作側の監修どれくらい入ってるんだろ… 陽ちゃんの出てくる3巻楽しみですね。
※1 Niklas Luhman,Liebe als passion:Zur Codierung von Intimitat,Frankfurt;suhrkamp,1982(佐藤勉訳『情熱としての愛―親密さのコード化』、2005年5月、木鐸社)