『佐伯沙弥香について』(入間人間)を読んだ

たぶん中学生ぶりに入間入間を読んだ。

やがて君になる 佐伯沙弥香について (電撃文庫)

やがて君になる 佐伯沙弥香について (電撃文庫)

 
やがて君になる 佐伯沙弥香について(2) (電撃文庫)

やがて君になる 佐伯沙弥香について(2) (電撃文庫)

 
 結構前に斜め読みして内容を頭に入れてなかったのであらためて読み直した。ところで、恋愛を見ることが大好きな槙くんはバチェラーとかテラハとか大好きなのかな。
 以下とりとめのない感想です。(※引用の際に色をつけているものは全て引用者によるわかりやすさのためのものです)

・佐伯沙弥香の視力ーー近くのものを見るために
 『佐伯沙弥香について』という簡潔なタイトルへ、彼女について何を語った物語なのかを改めて問い直すと、やはり原作漫画『やがて君になる』同様に「恋愛とは」という問いを改めて設定したものだろう。
 1巻では「5年3組 佐伯沙弥香」、「友澄女子中学校2-C 佐伯沙弥香」と佐伯の小・中時代が描かれる。そこには(漫画原作では見られなかった)佐伯にとっての「恋愛」の始まり、獲得を読むことができる。

 

 『佐伯沙弥香について』では、たとえば彼女が過去に習い事をたくさんしていたことなど、原作ではあまり触れられなかった佐伯の設定が深く掘り下げられる。気になったのは視力に関する描写だ。
 原作では佐伯の視力は悪く家では眼鏡という設定が明かされたくらいだが、小説では小学生、中学生、高校一年生と時期を追って佐伯を書くことで視力の悪化についても段階を踏んで書かれている。初めて視力に言及されるのは以下の引用部分だ。

 出かける時、水泳教室ではなくあの子のもとへ向かうような気持ちになっていた。好きとか嫌いとかではなく、その異質さには引き寄せられるものがあった。道はいつものように蟬が鳴き、日は強く、雲は膨らむ。けれどその日差しがいつもより白さを増しているように見えた。全体に輪郭がぼんやりとしている。目を擦っても取れない。

「……もしかして」

 目の端に触れる。少し、視力が落ちたのだろうか。近眼、と机の上のノートを連想する。酷使された目が、近くのものを見るためのものに変わってしまったのかもしれない。

  視力の悪化が単なる身体の変化のみを指し示すにとどまらず、佐伯の心的な変化の始まりを連想させる。この「目」の変化は物の見方――とりわけ「特別」な人間に対する意識の始まりとも繋がっているだろう。

 佐伯が女の子の「異質さに引き寄せられ」はじめたことは、佐伯の目が「近くのものを見るためのもの」になっていく変化の始まりになっている。ここでいう近くのものを見るためのもの、というのは勿論ただの近眼という意味だけではなく、親密な関係性の獲得へ目が向いたことの始まりを意味しているのだろう。
 そして「5年3組 佐伯沙弥香」の終盤では女の子と佐伯の水中での触れ合いが描かれる。挿絵もあり、印象的なシーンだ。

 二人、水中に沈んだまま目が合う。肉眼なのに、二人しかいなくて水中が荒れていないから相手の顔がよく見える。水中でも輝くような女の子の瞳が私を強く捉えていた。(中略)女の子の手を取る。女の子はびっくりしたのか、泡を多く吐き出す。足をばたつかせて姿勢を維持しながら、取られた手を見つめる。私と女の子の手の色合いは対照的で、その輪郭線が悪くなり始めた目にもはっきりとわかる

  佐伯の 「悪くなり始めた目」はしかし「はっきりと」女の子をうつしている。佐伯はこの時、女の子が自分に触れたことで熱くなった体をプールで冷やしているのだと理解し、後を追うように飛び込み、熱さを確認するように彼女の手に触れる。ここでは佐伯に警戒や不安の感情は全く見られず、「引き寄せられ」るように女の子へと向かっていく。

 しかし、女の子がそれに応えるようなかたちで泡をよせ、それを佐伯が受け入れた途端、佐伯の「心臓にヒビが入」り、それに驚いた佐伯はあわててスイミングクラブを後にする。

 私は、なにを見てしまったのだろう。なにを受け取りかけて、息が跳ねて呼吸もままならないほどに走って、なにがそんなに怖いのか。なにが、なにが、と思考が整然としない。(中略)地面を跳ぶように蹴って、視界が目まぐるしく上下する。あの女の子のもたらす泡を吸い込んだ先にあるもの。それはまだ、私が知ってはいけないもの。幼い知識や狭い常識では及びもつかないそれの正体を、本能だけが知っている。

 「幼い知識や狭い常識」によって佐伯は女性同士の恋愛を「ありえない組み合わせ」だと思いこんでいた。しかし、いざ女の子と自身という身にそれらが降りかかってきたとき、佐伯は「引き寄せられ」た。

 「なにを見てしまったのだろう」という疑問はつまり何かを見たということであり、それが佐伯の「目」の、「近くのものをみるための目」への変化を示している。しかし、幼い佐伯はまだそれらを理解できるだけの知識もないために、自覚はされなかった。そして、続く「友澄女子中学校2-C 佐伯沙弥香」では千枝先輩との交際を通して己の性質を自覚していく。

 落ち着いてから眼鏡をかけ直す。家ではいつの間にか、眼鏡をかけるようになっていた。ふと見下ろす手も少し大きくなったし、椅子だって丁度いい大きさになる。だから恋人だってできる。

「恋人……」

 呟きながら目元を押さえる。改めて、慣れない関係だと実感する。

 家では眼鏡をかけるようになった視力の低下と同時に椅子のサイズがちょうどよくなったという中学生の身体的な成長が描かれる。「だから恋人だってできる」への展開は一見妙にうつるが、しかし眼鏡をかけなければならないほど悪くなった目は佐伯がもう恋愛を獲得したことを示しているために、佐伯の中では接続する。そしてまた、「慣れない」ために疲れ目をいやすようなしぐさもしているのだろう。
 そして千枝先輩との交際が終え、その悲しみの中で「恋愛なんて余計なことだって思うことでしか前を向けなかった」佐伯は中高一貫の女子校から「女の子を好きになったということも一時の迷いだったと強がるために」共学の遠見東高校へと入学する。その入学式で七海と出会い一目惚れをするわけだが、その際佐伯は自身の心情を
 これほど、他のことに意識が向かないのは初めてだった。集中している、ともまた異なる偏りだった。視界が中央にぎゅっと押し潰されて、ごく狭い場所しか見えなくなってしまっているような窮屈ささえ感じる。とにかく、私には『あの子』のことしか頭になかった。
と、狭くなった視界を語る。小学生のスイミングスクールの女の子との出会いからだんだんと「近くのものをみるための目」へとなっていった佐伯の目はとうとう七海を前にし、「ごく狭い場所」しか映さなくなり、
 七海燈子と出会って、私は納得する。理解でもなく、諦めでもなく、そこにあるのは自分への納得。私は、女の子に恋することしかできないんだって。
佐伯は「女の子に恋することしかできない」自身の性質を納得する。
 原作で登場した佐伯の目が悪いという設定は、小説版では佐伯に備えられた性質を読み込むものとして機能している。これは原作の『やがて君になる』という作品自体が「恋愛を自明としない」という考えのもと作られているために、佐伯についてもそのように描かれたのだろう。
 
愛の習得ーー佐伯沙弥香とフィクション
 視力の他に佐伯の設定について掘り下げられたものといえば、読書の趣味についてだろう。こちらも原作の視力同様、佐伯の好みについては「新書や評論、フィクションはそれほど」と明かされただけだった。それについて特に理由は明かされていなかったが、ノベライズではもう少し掘り下げられている。
「小説はあんまり……」
 小説に限らず、映画やドラマといったフィクションにはさほど惹かれなかった。作り物を否定するわけではないけれど、そういったものは触れようとしても遠くに感じられた
 佐伯は中学2年時からフィクションは遠くに感じられるという理由でほとんど手に取らないという点で、小糸と対照的だ。

少女漫画やラブソングのことばは/キラキラしてて眩しくて/今なら辞書を引かなくてもわかるけど/わたしのものにはなってくれない

やがて君になる 第1巻 p.3

本で読む歌で聞く恋はキラキラしてて/これまでは憧れるだけだったけど/わたしだって羽根が生えたみたいにフワフワしちゃったりそんな期待/だけど/依然しっかり地面を踏みしめていて大丈夫 わたしはきっと/他の人より羽根が生えるのが遅いだけで/きっと今に/もうすぐ…

やがて君になる 第1巻 p.32-34

 小糸も佐伯同様に、こと恋愛を取り扱ったフィクションについては「わたしのものにはなってくれない」点で「遠くに感じられる」と述べるが、しかしp.3の小糸は布団に寝っ転がりながら手元にはおそらく恋愛の小説、ヘッドホンでおそらくラブソングを聞き、周りには白泉社の装丁と思しき少女漫画が積まれている。

 つまり小糸は佐伯と同様に恋愛についてフィクションを「遠くに感じ」ているが、しかしそれらを積極的に摂取している。それは理解できないからこそ理解したいこと、恋愛を遠くに感じる一方「憧れて」もいることの現れだろう。(そして小糸はSFやミステリを好んで読むし、およそ身近でなくともフィクションを楽しめるタイプであることは分かる/また自身からフィクションによって恋愛を学びとる他に、小糸には"恋人をしょっちゅう家へ招く姉"という実際的な恋愛カップルのモデルケースも配置されている)

 中学二年生の佐伯は恋愛について

 家族以外に、名前で呼び合うような相手は今のところ誰もいない。いつか、そういう人にも出会えるのだろうか。……少なくともしばらくは無理そうだった。中高一貫して、女子しかいないし。

人の見えているところでそんなこと(※引用者注 指を絡めていた、キスをしていた)をするとは思えないから、どれも信じるに値しない。そう思っていた、けど私はついさっき、先輩に手を握りしめられていた。あり得ないと感じていたことは、あり得なくなかった。

と、「いつか」のものとして捉えており、また女子同士のそれを実際に自分の身に降りかかるまで実感としては捉えていなかった。佐伯は自身の恋愛について、七海との出会いを経て「私は、女の子に恋することしかできない」と「納得」する。「愛は文学のなかで前もって形づくられ、まさしく規定されている感情」(Niklas Luhman,1982)※1であるとき、佐伯は「女性同士の愛」を文学の中で(この場合文学というのはひとつのメディアとしての代表例であり、目に映るものという意味であらゆるものが対象となる)規定されてこなかった。

 それは異性愛/同性愛という二項対立的階層序列の中で(異性愛にくらべて)同性愛が描かれてこなかったという社会状況のみならず、佐伯がフィクションを楽しまないという個人の問題も重なっている(もちろんこれは別個の並列する問題ではなく接続しうる問題でもある。佐伯にそぐうかたちの恋愛が描かれなければそれを「遠くに感じられる」のは当然だろう)。

 たいして、千枝先輩はフィクションでの恋愛の学習と、それへのあこがれを携えたことで佐伯との交際へ踏み込むこととなる。その中でのやり取りでは佐伯は頻繁にその要素を感じ取ってもいる。

 「沙弥香ちゃんの手、あったかいね」

 先輩って、フィクションみたいな発言が多いなって思った。

 「楽しい時間はすぐ過ぎるね」

 色々なところで見かけるような感想を、自分が本当に聞くことになるとは思わなかった。

 そして、千枝先輩が佐伯とのキスの中でひびくことが何もなかったことと、千枝先輩の高等部進学でやがて二人の距離ははなれていく。佐伯が水泳の女の子との疑似的な身体接触の中で目覚めかけたものがあったように、千枝先輩も佐伯とキスをしたことでーーそれが明確に愛のコードの中で行われるものという意味で――佐伯への好意へ違和を感じるようになり、先輩からの宣言で交際は終了する。直後は怒りの感情を煮え立てる佐伯も、その後交際を「恋に恋するなんてありふれた表現があるけれど、先輩は正にそれだった」と振り返っている。

 千枝先輩はさまざまな学習の結果により恋人との電話やキスにあこがれたわけだが、佐伯はそうではなく、交際の中でそれらにあこがれた先輩が望むものを学習していった。「こういう私にしたのは、あなたのくせに。」は原作の佐伯のモノローグであるが、小説版ではこれが千枝先輩を通した学習の結果であること、またそうなった佐伯の過程を掘り下げている。

 

 『佐伯沙弥香について』では、視力と読書の趣味において原作で開示された情報から佐伯沙弥香の恋愛の獲得が掘り下げられていた。『やがて君になる』という恋愛を問い直す物語の中で佐伯は劇中で初めから七海に恋愛をしている人物であるが、ただ過去を描くだけでなく、そこに彼女もまた恋愛の獲得していく過程が描かれているという点でやが君の「恋愛を問い直す」という軸はノベライズにおいても徹底している。原作側の監修どれくらい入ってるんだろ… 陽ちゃんの出てくる3巻楽しみですね。

 

※1 Niklas Luhman,Liebe als passion:Zur Codierung von Intimitat,Frankfurt;suhrkamp,1982(佐藤勉訳『情熱としての愛―親密さのコード化』、2005年5月、木鐸社

 

 

『水野と茶山』(西尾雄太)を読んだ(追記)(2/11訂正)

久しぶりに紙で漫画を買った。

 

水野と茶山 上 (ビームコミックス)

水野と茶山 上 (ビームコミックス)

 

紙ならでは、というと、帯がシンプルでカッコいい(帯文内容もいい、特に下巻)。帯下の"Young Tender Hearts Beat Fast"の文字は読み終わってから気づいて、聴きながら読み返してみると、音楽の疾走感が物語に上乗せされて気持ちいい。歌詞は2人の緊張感と近くを語っていて。

あと書き文字が可愛い。

以下とりとめのない感想です。※終盤の内容まで踏み込んでいます

 

瑞希とみどり 

2/11訂正 (※慧と書いてたのですが、トークイベントで「みどり」と明かされました。広告DMに載っているというのは合ってたんですけど、ふつうに私の目が悪すぎて見間違えてました……。漢字一文字のみどりなんですが、私の目が悪すぎてどの"みどり"なのかは判別がつかないのでひらがな表記にします。事前にめちゃくちゃ目が悪いので…と書いていた保険がほんとうにきいてくるとは思わなかった……。コンタクト買い直します……)

 

宣伝文句や感想、作者本人のツイッターにすら登場する「水野と茶山」を表現するに使われる「ロミオとジュリエット」だが、なるほど百合のロミジュリは今までありそうでなかった(私が知らないだけであるかもしれん。あったら教えてください)

ロミオとジュリエット」というと、誰でも粗筋なら知っているだろう、敵対する家の娘と息子の悲恋物語だ。たしかに水野と茶山の家も敵対している。また、『水野と茶山』というタイトルもそれっぽいのかもしれないが、一方で対照的だとも言える。ロミジュリにタイトルを倣うならば、『水野と茶山』は「瑞希とみどり」または「みどりと瑞希」になる。

水野の下の名前はラストシーンの旅館の予約明細に、茶山の下の名前は水野が用意した茶山宛偽DMの名前欄へわずかに出てくるばかりで(私はめちゃくちゃ目が悪いので字を読み間違っているかもしれない)(← 2/11 本当に間違えてたよ)、両者とも徹底して「水野」「茶山」と呼ばれている。また、水野はクラスメイトから「ミッティ」と呼ばれているが、彼女が「ずの ずき」である以上、これが下の名前の代替とはなり得ない。

ちなみに「お山の大将」対「他」の他である會川は那海という名前が繰り返し提示される(弟の珊士とともに海っぽい名前だ)。會川は家族や田舎町に縛られながら、そしてそれらを呪いながらも、しかし「浅葉町」において「會川」には何の効力もないからだ。(キバヤシや谷村という苗字は、その人一人しか登場せず"ファミリー"ネームとしては機能していない点で同じだ)

ロミオとジュリエット」的でありながらも、2人の物語は徹底してファミリーネームで繰り広げられ、終盤においてようやく、かなり控えめに名前が明かされる。これは2人の物語が終には家や土地のしがらみを引き受けたうえで、それでも続いていくから、「誰にも止めさせるもんか」と覚悟しているからだろう。ラストシーンの茶山の笑顔が茶畑で作業服を着ながらのものであることは明確だ。

(敵対する家の娘同士でありながらも、茶山と異なり水野が家縛られる時間は短いだろう。彼女には「決着」が見えていて、それは14世紀イタリアの敵対する名家の2人との違いでもあるし、茶山との違いでもある)

 

「秘密」

こうしてファミリーネームに縛られた2人だからこそ逢瀬は秘密のものとなるわけだが(進路指導室でそれをするのもなんだか皮肉だ)、なるほど現在の百合における秘密の設定とロミジュリ的敵対はたしかに相性がいいと思った。

『やが君』仲谷鳰も連載終了後のインタビューで燈子と侑の秘密について語っている。

百合って、女の子同士の恋だから秘密にしないといけないみたいな構造の話も多いのですが、そうではなくて、この二人だから秘密にしなきゃいけないんだという関係にできないかを考えたんです。(中略)百合の持つ面白さに含まれる「女の子同士だから」という要素を、「この二人だから」という要素に置き換えていき、侑と燈子の二人の話が生まれました。

大人気百合漫画『やがて君になる』最終巻直前仲谷鳰に聞く「侑と燈子が『運命の二人』には見えないようにhttps://www.excite.co.jp/news/article/E1574724767124/?p=3

一昔前の百合やBL、またこのジャンルに限らず特に日本で書かれた同性愛をとりあつかった作品について「禁断の」などといった惹句がつくことは珍しくなかったが、昨年、朝日新聞の「禁断のボーイズラブ」という表記が問題視されて謝罪に至ったニュースがあった。同性愛=禁断、といったイメージは正しくないものとして受け止められはじめている。

当該ニュースは作品やジャンルを形容する言葉についてのものだったが、しかしこれは作中においての同性愛への手つきにも当然言えることだろう。無条件に「同性同士だから」という理由で「秘密」の関係へと結びつけるのは、もはや古臭いとも感ぜられる風潮は確かにある。

しかし「秘密」は面白い。周囲にバレたときのスリルや誰にも言えない二人きりの世界は物語を盛り上げる。だからこそ、仲谷は「この二人だから」という関係の構築で「秘密」への手続きを行った。

『茶山と水野』は閉塞的な田舎町という舞台と、敵対する家の娘同士という要素で二人の関係を「秘密」にしていく。

田舎=同性愛への差別(というか、あらゆる差別)が激しいという一種の(舞台設定には非常に便利な)ステレオタイプへ、さらに敵対する家同士という設定を乗せることは、物語にひとつの個性を持たせるとともに、ラストシーンの「浅葉町」という田舎、ひとつの町のゆるやかな変化へと読者の目を向けさせる。

結局あの町では/経済を回している人間が/正しいのだ

ただ/父の在任中に結ばれた/いくつかの取り決めは/少しずつあの町を/変えていくだろう

『水野と茶山』下巻・最終話

このモノローグの直前、會川との会話の中で、彼女に「つらかったら逃げ出していい」と思いながらも水野はその言葉をかけられない。目の前で起きている小学生のいじめらしきやり取りを前にしても。それはおそらくこの町で茶山家抜きに生活を営んでいるものが少ないことや、この町を抜け出せる人間ばかりではないことを水野も理解しているからだろう。(そして會川は母と珊士のために町を抜け出せないのかもしれない)

しかし、繰り返される水野の「大嫌いだ」という閉塞的な田舎への嫌悪感は、そこを出た自身によって町の未来をある程度揺らぎのあるものとして捉えなおされる。

ここ最近ちょうど「閉塞的な田舎」って物語のさまざまな障害としてはたしかに便利だけど、それを1つの単純なモチーフとして扱うことはあまりにも危険だよな〜と思っていたので、『水野と茶山』の町の描き方はそのリアリティと綿密さ、そしてラストまで含めて豊かでよかったなと思いました。いやこれは好みの問題でしかないのですが…。

 

・『アフターアワーズ』と『水野と茶山』

『アフターアワーズ』でケイの家によってその一端が描かれた「この町で暮らすこと」が、『水野と茶山』ではぐっと押し広げられた。

また、アフターアワーズのひとつの大きなモチーフであった「インターネット」は水野と茶山にも引き継がれた。

たとえば、

・LINE(水野のクラスメイト同士の会話、水野と茶山のつながり)

・2ちゃんに似た掲示板。浅葉町なんでもスレ

ツイッター「誕生日おめでとう」

・インスタグラム(祭の様子、キバヤシの元カレ)

こんな感じだ。

ところで、こうして見るとアフターアワーズで描かれるインターネットとはかなり違った印象を受ける。

それはほとんどインターネットに関する描写が結局は現実と地続きのそれだという点だろう。

インスタグラムのストーリーにあげられる、友達同士が祭屋台を楽しんでいる様子やキバヤシの元カレの「求愛行動」の映像。これらはインターネットに場所が移っただけで、行われていることは「新しい噂話をとっかえひっかえ/なにもない学校生活になにかがあるようなふりをしている」現実とまったく変わらない。

「私は/目の前の結晶を通じて/世界中の石英の記憶に/呼びかけてるだけなんだ」/って。

それきいて私、/なんだか/インターネットみたい/だなーって。

インターネットっていう/海があったとしてね、/必ず波打ち際があるわけ/でしょう?

情報の波がたえず打ち寄せる/鮮度と密度が高い場所。

そこにはきっと/予言があると思うんだよ/ねえ。

『アフターアワーズ』#15

エミの回想の中でケイが語るこのシーンはラストのインターネット(や、それによって生じた関係、文化)に対するメッセージと重なっていくわけだが、『水野と茶山』において描かれるインターネットは「鮮度と密度が高」くない。そりゃそうだ、とっかえひっかえする噂話のひとつに過ぎないのだから。

茶山父がスマホを片手に「ガキも大人も変わらねえ」というのは、掲示板でのやり取りそのものを指していたわけではないかもしれないにしろ、こうした噂話をしているのは「なにもない学校生活」を送る子どもたちだけではなく、大人も同じであることがわかる。

アフターアワーズでインターネットが生み出す結果を描いたとするなら、水野と茶山は無数にあるなにも生み出しはしない現実と変わらないインターネットを描いている。しんどいね。

あと全然関係ないけど『まいりました、先輩』にも主人公の女子高生が彼氏へのプレゼントを買うのにメルカリを利用していて驚いたものだけど、水野も同じことをしていた。(ちなみにまいりました〜は東京が舞台だ。)女子高生のリアリティというものが(たった5年前は自分がそうだったのに)もう私には、感覚的にはまったく手の届かないものになってるなと改めて感じた。

 

 

追記:1/13 16:30くらい

書き足りなかったらしい。

水野と茶山 下 (ビームコミックス)

水野と茶山 下 (ビームコミックス)

 

リビングに置いておいたら母親が読んで絶賛していた。タイムラインにいるオタクか? うちの母親は好きな漫画の話になると『櫻の園』、『おにいさまへ…』を挙げる。最近だと『メタモルフォーゼの縁側』も読んでいた。いや、タイムラインにいるオタクか?

以下とりとめのない感想です

 

二人の父親

水野と茶山の家は対立しながらも、その娘としての役割は全く違う。水野は茶山とちがって将来において自由がある。町を出ることができる。「決着」を望むことができるのは水野においてのみだ。茶山はずっと走り続けていくし、その覚悟を決めている(好き…)。

水野の父親は冒頭で「お前の選択を尊重する」と述べているように、どうやら公務員になるよう勧めたりするそぶりもなく、娘の進路に口出しをするつもりもないようだ。この理由は娘だから(息子ならばという話ではないという意味だ)、というよりかは、ただ家業ではないというただ一点においてだろう。

水野の母親もおそらく余所者らしいということを考えると(虫に対する対応が母親と娘で全く違う。虫に慌てる母親がある程度の都会からやってきたのだろうことを示唆させる。生まれも育ちも浅葉町の娘はそれらに平然としている)、水野自身が家に縛られている時間は茶山に比べると短期的だ。たとえば二世議員的な、脈々と受け継いでいくものではまったくない。この辺りは浅葉町における町長と茶山園のパワーバランスにもつながっているのかもしれない。

水野と茶山の父親は対立している。しかしこれは個人的な喧嘩ではなく、町内政治における争いであり、また2人が正面衝突するような場面はない。だからこそ、特に茶山の父親の二面性は目を引かれるものがある。

茶山の父親は車の中で毒づくシーンや顔に近づいた虫をバチンと潰すシーン(人間失格の一節のオマージュだろう)など「怖い」人に見えるが、茶山の母親や茶山本人にそうした面はほとんど見せない。茶山に「あちら側」と仲良くするなと言ってみせるシーンこそあるが、これもふくめ結局あくまでも茶園側とそうでない側の対立においてのみ厳しい顔をみせている。

茶山へ勉強がはかどっているか、と聞くシーンでは彼女を愛していることがその前後のセリフから分かるし、単なる跡継ぎとして以上の愛情がそこにあることは明確だろう。個人的には「跡継ぎは必要とするけれど、その性別を問わない」あたりが現代的なバランス感覚だと思った。

 

水野という光

まあ、だからこそ彼女は「レールの上を走ることは得意」になったのかもしれない。子どもにすらバカにされていたりひどいいじめを受けてはいても、しかし彼女はその仕事を引き継ぐことを決めているし「普通の家の子どもになりたかった」というような願望を持っている素振りは見えない(そして、作中にはそう願うことができないように、會川が配置されている。「お山の大将」二人の話であるということがどこまでも残酷にしめされる)。

上記でも持ち出した、彼女が茶山園の作業服を着て茶畑の真ん中でも綺麗に笑えるラストシーンがそれを示している。父親の絶妙な二面性があるからこそ引き立つ部分だ。母親・父親という個人への恨みはほとんど描かれず、田舎町全体への諦観が茶山を築いているからこそ、水野という個人が彼女にとって「松明」となる奇跡が際立つ。上巻ラストの切実さたるや…(一番好きなシーンです)

 

何か思ったらまた追記したりするかもしれん。