『水野と茶山』(西尾雄太)を読んだ(追記)(2/11訂正)

久しぶりに紙で漫画を買った。

 

水野と茶山 上 (ビームコミックス)

水野と茶山 上 (ビームコミックス)

 

紙ならでは、というと、帯がシンプルでカッコいい(帯文内容もいい、特に下巻)。帯下の"Young Tender Hearts Beat Fast"の文字は読み終わってから気づいて、聴きながら読み返してみると、音楽の疾走感が物語に上乗せされて気持ちいい。歌詞は2人の緊張感と近くを語っていて。

あと書き文字が可愛い。

以下とりとめのない感想です。※終盤の内容まで踏み込んでいます

 

瑞希とみどり 

2/11訂正 (※慧と書いてたのですが、トークイベントで「みどり」と明かされました。広告DMに載っているというのは合ってたんですけど、ふつうに私の目が悪すぎて見間違えてました……。漢字一文字のみどりなんですが、私の目が悪すぎてどの"みどり"なのかは判別がつかないのでひらがな表記にします。事前にめちゃくちゃ目が悪いので…と書いていた保険がほんとうにきいてくるとは思わなかった……。コンタクト買い直します……)

 

宣伝文句や感想、作者本人のツイッターにすら登場する「水野と茶山」を表現するに使われる「ロミオとジュリエット」だが、なるほど百合のロミジュリは今までありそうでなかった(私が知らないだけであるかもしれん。あったら教えてください)

ロミオとジュリエット」というと、誰でも粗筋なら知っているだろう、敵対する家の娘と息子の悲恋物語だ。たしかに水野と茶山の家も敵対している。また、『水野と茶山』というタイトルもそれっぽいのかもしれないが、一方で対照的だとも言える。ロミジュリにタイトルを倣うならば、『水野と茶山』は「瑞希とみどり」または「みどりと瑞希」になる。

水野の下の名前はラストシーンの旅館の予約明細に、茶山の下の名前は水野が用意した茶山宛偽DMの名前欄へわずかに出てくるばかりで(私はめちゃくちゃ目が悪いので字を読み間違っているかもしれない)(← 2/11 本当に間違えてたよ)、両者とも徹底して「水野」「茶山」と呼ばれている。また、水野はクラスメイトから「ミッティ」と呼ばれているが、彼女が「ずの ずき」である以上、これが下の名前の代替とはなり得ない。

ちなみに「お山の大将」対「他」の他である會川は那海という名前が繰り返し提示される(弟の珊士とともに海っぽい名前だ)。會川は家族や田舎町に縛られながら、そしてそれらを呪いながらも、しかし「浅葉町」において「會川」には何の効力もないからだ。(キバヤシや谷村という苗字は、その人一人しか登場せず"ファミリー"ネームとしては機能していない点で同じだ)

ロミオとジュリエット」的でありながらも、2人の物語は徹底してファミリーネームで繰り広げられ、終盤においてようやく、かなり控えめに名前が明かされる。これは2人の物語が終には家や土地のしがらみを引き受けたうえで、それでも続いていくから、「誰にも止めさせるもんか」と覚悟しているからだろう。ラストシーンの茶山の笑顔が茶畑で作業服を着ながらのものであることは明確だ。

(敵対する家の娘同士でありながらも、茶山と異なり水野が家縛られる時間は短いだろう。彼女には「決着」が見えていて、それは14世紀イタリアの敵対する名家の2人との違いでもあるし、茶山との違いでもある)

 

「秘密」

こうしてファミリーネームに縛られた2人だからこそ逢瀬は秘密のものとなるわけだが(進路指導室でそれをするのもなんだか皮肉だ)、なるほど現在の百合における秘密の設定とロミジュリ的敵対はたしかに相性がいいと思った。

『やが君』仲谷鳰も連載終了後のインタビューで燈子と侑の秘密について語っている。

百合って、女の子同士の恋だから秘密にしないといけないみたいな構造の話も多いのですが、そうではなくて、この二人だから秘密にしなきゃいけないんだという関係にできないかを考えたんです。(中略)百合の持つ面白さに含まれる「女の子同士だから」という要素を、「この二人だから」という要素に置き換えていき、侑と燈子の二人の話が生まれました。

大人気百合漫画『やがて君になる』最終巻直前仲谷鳰に聞く「侑と燈子が『運命の二人』には見えないようにhttps://www.excite.co.jp/news/article/E1574724767124/?p=3

一昔前の百合やBL、またこのジャンルに限らず特に日本で書かれた同性愛をとりあつかった作品について「禁断の」などといった惹句がつくことは珍しくなかったが、昨年、朝日新聞の「禁断のボーイズラブ」という表記が問題視されて謝罪に至ったニュースがあった。同性愛=禁断、といったイメージは正しくないものとして受け止められはじめている。

当該ニュースは作品やジャンルを形容する言葉についてのものだったが、しかしこれは作中においての同性愛への手つきにも当然言えることだろう。無条件に「同性同士だから」という理由で「秘密」の関係へと結びつけるのは、もはや古臭いとも感ぜられる風潮は確かにある。

しかし「秘密」は面白い。周囲にバレたときのスリルや誰にも言えない二人きりの世界は物語を盛り上げる。だからこそ、仲谷は「この二人だから」という関係の構築で「秘密」への手続きを行った。

『茶山と水野』は閉塞的な田舎町という舞台と、敵対する家の娘同士という要素で二人の関係を「秘密」にしていく。

田舎=同性愛への差別(というか、あらゆる差別)が激しいという一種の(舞台設定には非常に便利な)ステレオタイプへ、さらに敵対する家同士という設定を乗せることは、物語にひとつの個性を持たせるとともに、ラストシーンの「浅葉町」という田舎、ひとつの町のゆるやかな変化へと読者の目を向けさせる。

結局あの町では/経済を回している人間が/正しいのだ

ただ/父の在任中に結ばれた/いくつかの取り決めは/少しずつあの町を/変えていくだろう

『水野と茶山』下巻・最終話

このモノローグの直前、會川との会話の中で、彼女に「つらかったら逃げ出していい」と思いながらも水野はその言葉をかけられない。目の前で起きている小学生のいじめらしきやり取りを前にしても。それはおそらくこの町で茶山家抜きに生活を営んでいるものが少ないことや、この町を抜け出せる人間ばかりではないことを水野も理解しているからだろう。(そして會川は母と珊士のために町を抜け出せないのかもしれない)

しかし、繰り返される水野の「大嫌いだ」という閉塞的な田舎への嫌悪感は、そこを出た自身によって町の未来をある程度揺らぎのあるものとして捉えなおされる。

ここ最近ちょうど「閉塞的な田舎」って物語のさまざまな障害としてはたしかに便利だけど、それを1つの単純なモチーフとして扱うことはあまりにも危険だよな〜と思っていたので、『水野と茶山』の町の描き方はそのリアリティと綿密さ、そしてラストまで含めて豊かでよかったなと思いました。いやこれは好みの問題でしかないのですが…。

 

・『アフターアワーズ』と『水野と茶山』

『アフターアワーズ』でケイの家によってその一端が描かれた「この町で暮らすこと」が、『水野と茶山』ではぐっと押し広げられた。

また、アフターアワーズのひとつの大きなモチーフであった「インターネット」は水野と茶山にも引き継がれた。

たとえば、

・LINE(水野のクラスメイト同士の会話、水野と茶山のつながり)

・2ちゃんに似た掲示板。浅葉町なんでもスレ

ツイッター「誕生日おめでとう」

・インスタグラム(祭の様子、キバヤシの元カレ)

こんな感じだ。

ところで、こうして見るとアフターアワーズで描かれるインターネットとはかなり違った印象を受ける。

それはほとんどインターネットに関する描写が結局は現実と地続きのそれだという点だろう。

インスタグラムのストーリーにあげられる、友達同士が祭屋台を楽しんでいる様子やキバヤシの元カレの「求愛行動」の映像。これらはインターネットに場所が移っただけで、行われていることは「新しい噂話をとっかえひっかえ/なにもない学校生活になにかがあるようなふりをしている」現実とまったく変わらない。

「私は/目の前の結晶を通じて/世界中の石英の記憶に/呼びかけてるだけなんだ」/って。

それきいて私、/なんだか/インターネットみたい/だなーって。

インターネットっていう/海があったとしてね、/必ず波打ち際があるわけ/でしょう?

情報の波がたえず打ち寄せる/鮮度と密度が高い場所。

そこにはきっと/予言があると思うんだよ/ねえ。

『アフターアワーズ』#15

エミの回想の中でケイが語るこのシーンはラストのインターネット(や、それによって生じた関係、文化)に対するメッセージと重なっていくわけだが、『水野と茶山』において描かれるインターネットは「鮮度と密度が高」くない。そりゃそうだ、とっかえひっかえする噂話のひとつに過ぎないのだから。

茶山父がスマホを片手に「ガキも大人も変わらねえ」というのは、掲示板でのやり取りそのものを指していたわけではないかもしれないにしろ、こうした噂話をしているのは「なにもない学校生活」を送る子どもたちだけではなく、大人も同じであることがわかる。

アフターアワーズでインターネットが生み出す結果を描いたとするなら、水野と茶山は無数にあるなにも生み出しはしない現実と変わらないインターネットを描いている。しんどいね。

あと全然関係ないけど『まいりました、先輩』にも主人公の女子高生が彼氏へのプレゼントを買うのにメルカリを利用していて驚いたものだけど、水野も同じことをしていた。(ちなみにまいりました〜は東京が舞台だ。)女子高生のリアリティというものが(たった5年前は自分がそうだったのに)もう私には、感覚的にはまったく手の届かないものになってるなと改めて感じた。

 

 

追記:1/13 16:30くらい

書き足りなかったらしい。

水野と茶山 下 (ビームコミックス)

水野と茶山 下 (ビームコミックス)

 

リビングに置いておいたら母親が読んで絶賛していた。タイムラインにいるオタクか? うちの母親は好きな漫画の話になると『櫻の園』、『おにいさまへ…』を挙げる。最近だと『メタモルフォーゼの縁側』も読んでいた。いや、タイムラインにいるオタクか?

以下とりとめのない感想です

 

二人の父親

水野と茶山の家は対立しながらも、その娘としての役割は全く違う。水野は茶山とちがって将来において自由がある。町を出ることができる。「決着」を望むことができるのは水野においてのみだ。茶山はずっと走り続けていくし、その覚悟を決めている(好き…)。

水野の父親は冒頭で「お前の選択を尊重する」と述べているように、どうやら公務員になるよう勧めたりするそぶりもなく、娘の進路に口出しをするつもりもないようだ。この理由は娘だから(息子ならばという話ではないという意味だ)、というよりかは、ただ家業ではないというただ一点においてだろう。

水野の母親もおそらく余所者らしいということを考えると(虫に対する対応が母親と娘で全く違う。虫に慌てる母親がある程度の都会からやってきたのだろうことを示唆させる。生まれも育ちも浅葉町の娘はそれらに平然としている)、水野自身が家に縛られている時間は茶山に比べると短期的だ。たとえば二世議員的な、脈々と受け継いでいくものではまったくない。この辺りは浅葉町における町長と茶山園のパワーバランスにもつながっているのかもしれない。

水野と茶山の父親は対立している。しかしこれは個人的な喧嘩ではなく、町内政治における争いであり、また2人が正面衝突するような場面はない。だからこそ、特に茶山の父親の二面性は目を引かれるものがある。

茶山の父親は車の中で毒づくシーンや顔に近づいた虫をバチンと潰すシーン(人間失格の一節のオマージュだろう)など「怖い」人に見えるが、茶山の母親や茶山本人にそうした面はほとんど見せない。茶山に「あちら側」と仲良くするなと言ってみせるシーンこそあるが、これもふくめ結局あくまでも茶園側とそうでない側の対立においてのみ厳しい顔をみせている。

茶山へ勉強がはかどっているか、と聞くシーンでは彼女を愛していることがその前後のセリフから分かるし、単なる跡継ぎとして以上の愛情がそこにあることは明確だろう。個人的には「跡継ぎは必要とするけれど、その性別を問わない」あたりが現代的なバランス感覚だと思った。

 

水野という光

まあ、だからこそ彼女は「レールの上を走ることは得意」になったのかもしれない。子どもにすらバカにされていたりひどいいじめを受けてはいても、しかし彼女はその仕事を引き継ぐことを決めているし「普通の家の子どもになりたかった」というような願望を持っている素振りは見えない(そして、作中にはそう願うことができないように、會川が配置されている。「お山の大将」二人の話であるということがどこまでも残酷にしめされる)。

上記でも持ち出した、彼女が茶山園の作業服を着て茶畑の真ん中でも綺麗に笑えるラストシーンがそれを示している。父親の絶妙な二面性があるからこそ引き立つ部分だ。母親・父親という個人への恨みはほとんど描かれず、田舎町全体への諦観が茶山を築いているからこそ、水野という個人が彼女にとって「松明」となる奇跡が際立つ。上巻ラストの切実さたるや…(一番好きなシーンです)

 

何か思ったらまた追記したりするかもしれん。